恋愛小説・願いが叶う「サターンの椅子」に座った女

 勝てる恋愛テク

神戸北野異人館街にたたずむ洋館「山手八番館」をご存知ですか?
こちらに「サターンの椅子」があります。
ローマ神話の五穀豊穣の神、サターンの彫刻が施された一組の椅子で、
豊穣をもたらす神の名に因み「願い事が実り叶う椅子」と伝えられています。
女性は向って右側に、男性は左側に座るそうですが、意図しない異性と座ってしまったら…

「幸せになりたい」
初詣では毎年、必ず神様にお願いをしてきた。
気が付けば今年で33歳。結婚して3年になる夫はいるけれども…。
「子供でもできればまた違うのかな」とふと思うこともあるが、今の夫ではそういう気にもなれない。

「願い事が叶う椅子が北野異人館街にあるらしいよ」
そんな話を客から聞いたのは、
源氏名・明日香(あすか)として神戸・三ノ宮でホステスとして働き始めた矢先だった。
客は、幸希(こうき)と名乗る28歳。
東京在住の実業家で出張で来ているという。
ナイフのように鋭いが優しげな目、スポーツマン体型、どこかカリスマ的なオーラを醸し出している。

幸希は「明日香のマイナスイオンで僕は癒されるんだ」とジョークを言う一方、
「人生という瞬間は2度とない」
「できる時にできることをしようと思う」のように、

思わず「そうそう、だから私はもっとあれもこれもしたいの…」
こう返答してしまうフレーズを投げ掛けてくるので、少しずつだが心が丸裸になっていく。

「願いが叶う椅子に行ってみたいけどついてきてくれない?」
幸希は、私の目が「行ってみたい!」と言っているのを見逃さなかったか。
絶妙のタイミングで、誘い言葉を投げ掛けてくる。
内心は2つ返事でオッケーだったが、わざと首をかしげたり、
スマホで予定を確認したりするフリをして同伴出勤を条件に誘いに応じた。

そして、幸希が連れて行ってくれたのは、神戸の港、街が一望できる北野異人館街の邸宅レストラン。
中世ヨーロッパの貴族邸を彷彿させる佇まい、
アンティークな食器と花びらが散りばめられたかのように美しい料理の数々。

「人が幸せそうにするのを見れば自分も幸せな気分になる」と語る幸希。
その人生観、仕事観に私は引き込まれ「この人なら幸せにしてくれるかも」と期待を抱いていた。

そんなタイミングで訪れたのが「山手八番館」の「サターンの椅子」。
男女で座る2つの椅子に幸希と座って目を閉じた時、
「幸せになりたい」と、幸希との未来を願わずにはいられなかった。

幸希の、
「サターンの椅子のように座ると幸せな気分になれるレストランをオープンしたい」
「異人館街のように美しい街、フランスのパリやイタリアのローマで暮らしたいね」
の夢のような言葉で私の心も花びらを散りばめたような景色に。

一方で、夫との現実の生活は、
日をまたいで帰宅すると「何かあった?大丈夫?」
食事の時も「嫌いなものない?」
寝る前も「ちゃんと休めてる?」
と私の心配ばかり。

そんなことより、もっとトキメキや刺激が欲しいのに…
聞くと、前の彼女も「刺激が足りない」を理由に他の男性へと乗り換えたそうだ。

地方公務員の5歳年上の夫とは、お見合いサイトを通じて知り合った。
私を大切にするという夫のプロポーズの返事には迷ったが、結婚を焦っていたので承諾することに。
高給でないが安定した職を得ており、家事も積極的にこなしてくれる夫。
私をいつも1番に考え、誕生日には手料理やケーキ、プレゼントも用意してくれるのだが…。

幸希との夢のような時間と、夫との生活のギャップから、私はついに夫に離婚届を突き付ける。
夫は「どうして?」と困惑したが、「君が幸せになるなら」としぶしぶサイン。

夫と別れてから約1ヶ月後、
幸希と東京行きの飛行機に搭乗するため訪れていた空港で、元夫から着信。

「元気にしてる?」
「新しい彼とは仲良くしてる?」、まだ私の心配をしている。

「私の幸せに水を差さないで」とスマホを閉じ、幸希と待ち合わせる空港ロビーへ。
だが、そこに幸希の姿はない。
10分ほど待っているとLINEで一言「仕事の急用で先に東京へ戻りました」。

思わず「私のこと軽く考えてるんじゃない!」と怒りの返信。
こんな時、少なくとも元夫だったら、仕事の予定をキャンセルしてでも待っていてくれたのに。

待っていてくれる。

元夫は、デートの遅刻、夕食、寝る前、どんなに遅くても待っていてくれたな…。
家を飛び出しちゃったけど、
「ただいま!」なんて言って帰ったら案外、「おかえり!」って言って迎えてくれるかも。

そんな期待を抱きながら、元夫のもとへ駆け付け、扉を「ただいま!」と勢いよく開ける。

「ごめん」と元夫から一言。
聞けば、空港での電話の後、前彼女と寄りを戻したのだそうだ。
「君のことが気がかりだったんだけど、幸せだと言うし」
「彼女は今独りぼっちで僕を頼りにしてくれいた」
「僕もそれに応えたいと思って」

「そうなんだ…」
1度は捨てられたくせにどこまでお人好しなのだろう。
待っていてくれる人がいることが、当たり前と思っていた。
でも、当たり前じゃなかったんだ…。

いつか幸希が「幸せとは、夢と現実の間にある」と話していたことがある。
夢から覚めた時の目の前に、現実の延長線上の夢に「幸せ」があるということなのだろう。
「幸せになりたい」と願う時、
今ある幸せに感謝することから始めなければならなかったのかな。
そう思う時、遠かった「幸せ」に1歩近付けたような気がした。